湿気と熱気と既視感。台湾

仕事の研修で台湾に行った。人生初めての台湾。そこは人々の熱気。亜熱帯の湿気。そして既視感のある場所だった。

台北の空港に着いたのは深夜2時。喫煙所を求めて外にでると、凄まじい湿気に驚かされた。さすが亜熱帯の島国と思ったのは一瞬で、あまりの不快指数の高さにそのまま帰りたくなった。外の熱気に対して建物の中は寒いくらいの冷房で、しばらく室内にいて外にでると、カメラのレンズが完全に曇ってしまい使い物にならなかった。

滞在は4日間。うち3日間は台北市内を観光しながらも仕事で慌ただしく過ごした。

移動中の車窓から、台北の街を見てまるでタイムスリップをしたかのような、不思議な感覚にとらわれた。どこかで見たことがあるけど少し異世界を感じる建物が立ち並んでいる。日本の現在と20〜30年前が同居しているような印象を受けた。

既視感の正体は、台湾がかつて日本だったからかもしれない。

現在の日本では、国外に日本語を話す国はないが、約70年前まで日本だった台湾では一部の人に日本語が普通に通じる。空港でタクシーにのったら、比較的高齢なドライバーだったが、流暢な日本語で話しかけられて驚いた。日本人からしてみると、外国でタクシードライバーが流暢な日本語で話しかけてくる体験はなかなかできない。

統治の是非はよくわからないけれど、司馬遼太郎の『街道を行く』には、上下水道の整備など、当時としては最先端の街づくりを行ったと書いてあった。

好意的に話しかけてくる、少し年配のドライバーからは、日本の統治もそれほど悪いものではなかったのかな。と思わされた。

三越があったりする
地下鉄の雰囲気もどことなく似てる

日本統治時代の酒工場の跡地を再利用した華山1914文創園区。

時間が自由になった、最後の1日、一人台北から電車にのり、「新竹」という場所に向かった。

台北と違い大きな都市でもなく、特別に何かがあるわけではないこの町を訪れたのは、日本が開業に大きく関わった台湾の新幹線に乗ってみたかったこと。そして、祖父のルーツがあったからだった。

新竹へ向かう車窓からみた景色 河川敷で野球を楽しんでいる人たちがいるのも、日本でもよくみる光景。

2007年に93歳で他界した祖父は、日本統治時代の台湾・新竹で生まれ育ち、小学校まで台湾にいたという。そんな訳で、祖父が幼少期に見た街、景色をひと目この目で確かめたかった。

新竹駅の駅舎は日本統治時代に作られている

現駅舎は、日本人建築家の松崎万長が日本統治時代の台湾総督府鉄道局に勤務していた時に設計した作品で、1913年3月31日に完成し台湾で現存している最古の駅舎である。1994年から台湾の学者、複数の有志者達の呼び掛けや保存運動の展開により、1998年6月22日に台湾の重要文化財と指定された。Wikipediaより

駅をおりるといきなり重厚な駅舎が迎えてくれる。どこかで見たことがある気がしたのは、これも日本人が設計した建物だったから。日本人として嬉しいのは、100年以上前に建設されたこの駅舎を台湾の人々は重要文化財に指定するなどとても大事にしていること。祖父が生まれたのは1914年だったので、この建物は祖父より1歳年上だったはず。当時は真新しい駅舎だったのかなと思いを馳せた。

新竹駅周辺には、駅舎以外も日本時代の建物が残っていた。

祖父のアルバムに残っていた1979年頃の新竹の写真(祖父は1970年代に3回ほど台湾の旧友を尋ねているようだった)
駅前にはこれまた既視感のあるそごうデパートが。中にはユニクロも入っており、完全に日本のデパートだった。
警察署(元新竹郡役所)
新竹市政府(元新竹郡役所)

短い時間でも祖父が見たはずの景色を一部見れたのは、感慨深かった。新竹を後にし、再び台北へ。自由時間の最後は、有名な観光スポット九份にいくことにした。

九份 千と千尋の神隠しのような雰囲気で有名な場所。台北の中心部から凄い早さで飛ばす路線バスに揺られ45分。
普段あまりビールは飲まないが、とにかく暑いので、非常に美味しかった。

初の台湾。3日間の滞在でうち2日間は仕事だったので、観光できたのは一部だけだった。猛烈な湿度で暑い毎日。それでももっと色々見てみたいと思ったのは、体感した暑さ以外に、人々に熱気があり、何か新しいことが起こりそうなワクワクがあったからだ。さらに、この場所がかつて日本だったことも大きい。昔日本で、今は違う。という特殊な状況が体感できる数少ない場所だ。いつかゆっくり全土を回ってみたい。